東京急行電鉄



 荷物輸送を行っていた頃のデワ3042、渋谷にて。この頃は手荷物、小荷物は国鉄の全国サービスであり、どこの私鉄でも扱っていた。明治時代からのこのサービスは宅配便に押されて、1986年に廃止された。1972年2月撮影.
 東急初の20m車、8000系が続々と投入されたころ,1972年2月渋谷にて撮影。
 8000系は1969年より東横線、田園都市線に配備された。
 渋谷から元町・中華街へ向かう5050系特急。2008年7月撮影。
 蒲鉾状の大屋根が特徴的である東横線渋谷駅、2013年3月に地下化が完了し廃止解体された。2012年9月撮影。
 東横線渋谷駅と東急百貨店東横店東館(旧東横百貨店,旧玉電ビル)、後方には東京メトロ銀座線01系。2013年1月.
 山手線を跨ぐ廃止が近い東横線の跨線橋、2013年1月撮影。
代官山にて、2012年9月撮影。:現在、渋谷駅へはこの辺りから地下へと入っていく。
 日比谷線からの乗り入れた東京メトロ02系菊名行きの列車、2013年1月自由が丘にて撮影。東横線と日比谷線の相互乗り入れは副都心線乗り入れ時に廃止された。
 東急の日比谷線直通用1000系、2013年1月祐天寺にて撮影。現在はホーム幅が縮小されて中央に追越線が1本できている。
 道路と併用であった二子橋が、1966年に隣に新設された鉄道専用橋となった後の田園都市線二子新地前にて、旧塗装の3470型、1967年撮影。このころは二子新地前に渡り線があり、ラッシュ時には大井町との間の区間運転も行われていた。これは以前の二子玉川園折り返しを踏襲したもの。
 二子という地名は川崎側,玉川は東京側のみに存在する.一方,瀬田や等々力は東京と川崎両方に存在する.これは昔の多摩川の蛇行の名残であり,現在の神奈川と東京の境界が確定したのは1912年である.それまでは二子新地前の駅前の瀬田は東京都だったそうだ.
 二子新地前へ進入する折り返しの新製の7200系,1967年撮影.7200系は18m車の1M方式で中小民鉄で使いやすいため,多くの車両が譲渡されて現在でも活躍している.
 二子玉川園から大井町へ向かう田園都市線の6000系。このころは田園都市線は大井町が始点であった。中央は新玉川線用の路盤であり、1966年に高架となったときに先行して作られた。現在は田園都市線の複々線化のために構内配線が変わってしまった。
 二子玉川園にて、田園都市線7000系。溝の口と長津田間が開通したころ、閑散時は鷺沼で切り離しを行い、長津田まで7000系や3000系2両編成で運転されていた。今は20m車10両編成が頻繁に運転され、路線も中央林間まで延長されている。
 二子橋を渡る新製の7200系アルミ車.試作的要素が多く,デハ7200,クハ7500型が1両ずつ製作された.1968年撮影.
 この頃は高島屋も開店前,二子玉川園も営業しており,川べりには料亭も残っていた.この写真にも「あづま家」の電柱広告が写っている.田園都市線は18m車4両編成であった.二子橋のこの辺りは現在は複々線化されホームになっていた.

 
 1971年2月、桜木町にて5000系。この桜木町−横浜間はみなとみらい線の開通にともなって2004年に廃止された.
 桜木町にて、7000系急行。
 8000系の急行、1976年2月撮影。高架の東横線横浜駅はみなとみらい線の開通とともに、地下駅となった。
 
 古い東急の駅として残る等々力、現在、地下化計画で環境保護の観点からもめて頓挫している。2005年4月撮影。
 5200系、自由が丘にて。ロールオーバーすると2005年の自由が丘、8090系となる。駅の様子は40年間、ほとんど変わっていない。大井町線が5両編成になったとき、ホームが延長されて留置線への渡り線が無くなった。
 多摩川線の鵜木付近を走る7700系,2015年8月撮影.
 旧塗色にラッピングされた池上線の1000系、2020年8月五反田にて。
 ホームの壁際に作られた長い木製のベンチ,かつては多くの駅で見ることができた.池上線では今でも使われている.久が原にて2020年8月撮影.
 渋谷駅の150型、1968年2月撮影。ステンレス車体の技術を応用したため,鋼製車であったが,コルゲートになっていた.
 大橋における200型
 東横百貨店西館の2階の中に入り込んだ玉川線渋谷駅。3階は地下鉄銀座線の渋谷駅となっている。このような立体構造は渋谷駅が渋谷川の谷に立地しているからであり、渋谷川は暗渠となって、今でも渋谷の地下を流れている。
 
 1969年1月、中里にて、70型。三軒茶屋-真中間は専用軌道となっていた。現在は高速道路が高架で国道246号線の上を走っており、空も見えない。
 用賀駅の前後は専用軌道になっていた。
 用賀−瀬田間にて、1969年1月。この辺りは大山街道の旧道を走っており、最後まで田舎的な雰囲気であった。
 
 瀬田から二子玉川園の間は多摩川の河岸段丘のため坂になっている.現在の田園都市線(旧玉川線)はこの坂の途中から地上へ出ている.
 廃止が近づいた1969年5月、二子玉川園にて40型。ラッシュ時には戦前型の電車30、40型も活躍していた。
 現在の高島屋SCがあるニコタマからは想像できないくらい長閑な郊外駅であった。二子玉川は川遊びの地として発展し、昭和30年代まで三業地もあった。また遊園地の二子玉川園もあった。左の田園都市線は1966年に高架となった。この当時は川辺には未だ料亭も残っていた。遠方に富士観会館が見えるが、2003年に取り壊されて現在はマンションとなっている。。
 

 
 1967年頃の玉川線の切符。上左:車内券、上右:回数券、下左:渋谷駅では改札があり乗車券を発売していた、下右:乗換券、三軒茶屋での乗換用、この乗換券は二子多摩川園方面から下高井戸方面への乗り換え用。東急の旧社紋が入っている。
 砧線の中耕地−二子玉川園間の国道246号線踏切。1969年5月撮影。
 砧本村。砧線は全線単線であり、途中に交換設備は無かった。終点の砧本村も行き止まりの単線であった。1969年5月撮影。
 吉沢の野川鉄橋を渡る60型.
三軒茶屋にて玉川線80型。1969年撮影。まだ高速道路もなく空も広い。
 三軒茶屋にて、200型。
 大橋にて,150型

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Copyright Tanuchi, All Right Reserved  更新年月日 2025年2月7日