西武鉄道



 1967年12月、新製されたばかりの801系。初めて制御車に空気バネ台車が採用された。最後の赤電でもあった。秩父線開通前の吾野にて。
 安比奈貨物駅に放置されていた旧鉄道連隊の独コッペル社製の機関車。1969年1月撮影。このころはすでに安比奈貨物線は休止されていた。
 この写真は夕日を浴びているため色は誇張されているが、安比奈に放置されていたコッペルは錆で真っ赤であった。
 1972年秋、ユネスコ村−西武園遊園地間の山口線に突如ナローSLが出現した。頚城鉄道の2号機、そして客車は井笠鉄道から借用であった。1972年10月撮影。
 車輌基地には給炭、給水、アッシュピットなどSLに必要な設備も作られた。
 西武鉄道山口線は762mm軌間、蓄電池機関車が解放型の客車を索引、遊園地の鉄道のようであったが、れっきとした地方鉄道法によるものであった。廃止となった軽便鉄道の車輌を走らせて楽しい鉄道であったが、1984年に廃止され、新交通システムの山口線(レオライナー)として生まれ変わった。
 1973年4月、下井草−鷺宮間にて撮影。701系先頭車の台車は国鉄払い下げのTR-11から空気バネの新しいものに交換されている。急行表示は小さい。
 
 高田馬場へ進入する701系と401系の6両編成。1973年8月撮影。
 1973年ころの沼袋駅。構内配線は現在とは異なっていた。島式ホームが中央にあり、追越し線が外側という不思議な構造であった。
 中井-野方間は現在地下化の工事が進行中である。
 沼袋、2014年1月撮影。現在地下化の工事中であり、完成後はこの光景は無くなる。工事のため,すでに追い越し線は1線となった.
 1975年4月、西武新宿にて。このころの西武新宿駅はホームも駅舎も終戦直後のバラック的なものであった。当初の計画では新宿駅の現在のMY CITY(昔はステーションビルと言った)の2階へ乗り入れる計画で、そのために西武新宿駅の改築は見送られていた。MY CITYには準備工事がしてあった。しかしこの計画は新宿駅予定地が狭隘なことなどから頓挫し、その後、新宿プリンスホテルと一体となった現在の西武新宿駅に改築された。
 1974年ころ、新宿線、下井草付近の411系と701系の6両編成。行先表示がサボから方向幕へ変更された直後である。
 1967年4月、多摩川線の是政駅にて。
 601系から続く正面窓のデザインである初期型の101系、池袋にて2002年7月撮影。この初期型の車両は老朽化により引退した。
 高架複々線工事が始まる前の石神井公園駅へ進入する有楽町線直通の東京メトロ07系。2007年2月撮影。現在07系は東西線に転出し、有楽町線と副都心線には10000系が投入されている。
 高架化前の石神井公園にて。
 
 
 高架化が完成した石神井公園を行くニューレッドアロー10000系, 2012年5月撮影.
 
 古い西武鉄道の雰囲気が最近まで残っていた江古田駅。追越し設備は隣の東長崎に新設、構内長の短い江古田の追越しは廃止され、駅は相対的ホーム,橋上型に改築された。2008年5月撮影。
 西武新宿線の西武柳沢と田無の間に不思議な立体交差がある。幅は狭いが高い。この立体交差は道路用ではなく、鉄道用として作られたといわれている。中島飛行機武蔵製作所(現在のNTT研究開発センター、武蔵野中央公園)と中島航空金属(現在の住友重機械田無製造所)の間を結んでいた簡易鉄道の跡といわれている。貨物専用線として運転されたのは第2次世界大戦末期の短期間だそうで、写真も残っていない幻の鉄道である。「ほうや公民館たより」にこの鉄道の記事が掲載されてから注目されるようになった。最近では米軍の航空写真や地図が発見され、路線の経路がほぼ明らかになった。
2008年5月撮影。
 引退間際に登場時の塗装を復元した新101系,練馬にて2011年7月撮影.新101系は池袋線,新宿線系統からは引退し支線で活躍している.
 30000系スマイルトレイン。2008年6月都立家政にて撮影。
 秩父鉄道直通の快速急行、2010年6月、ひばりヶ丘にて。現在は4000系の飯能以東の定期運用は無くなった。
 
 東日本大震災直後の電力不足のため首都圏の鉄道は臨時ダイヤとなった。豊島園線は4両編成の2000系により線内折り返し運転された。2011年3月撮影。
 2014年1月、保谷電留線にて。

   [ BACK ]

Copyright Tanuchi, All Right Reserved  更新年月日 2024年8月21日